放課後創作部

コンピュータと創作、そして戯言。

社会悪という視点から見る奢り奢られ論争

「奢り奢られ」問題がなぜいつまでも終わらないのか

恋愛の話になると、ほとんどの人はこれを「モテテク」や「個人の好み」の問題として処理する。
男は奢った方が印象がいい、とか。割り勘だと冷める、とか。
そこに倫理や社会の話を持ち込むと、「いや恋愛は自由だろ」で終わる。

確かにその通りだ。
誰を魅力的に感じるか、どんな振る舞いに惹かれるかは基本的に私的領域の話で、強制されるものではない。

でも、この話を完全に個人の自由として切り離していいかというと、そうでもない。

なぜなら、その「個人の嗜好」は集積すると社会構造を作るからだ。

例えば、「男性は経済力があった方が魅力的だ」「リードしてくれる男性がいい」という選好が広く共有されているとする。
すると男性は「稼ぐこと」に強いインセンティブを持ちやすくなり、女性は必ずしも同じ方向に動く必要がなくなる。

この時点で、
・職業選択
・働き方
・昇進意欲
・家庭内役割分担
に差が生まれる。

そしてその差は、最終的に「管理職割合」や「収入格差」といった形で観測される。

つまり、恋愛の嗜好は単なる趣味ではなく、人生戦略のインセンティブとして機能している。

ここで厄介なのは、
「男女平等を進めるべきだ」という社会的合意と、
「どんな相手を好きになるかは自由だ」という原則が、構造的に衝突することだ。

雇用における差別は是正できる。
制度で禁止できるからだ。

しかし、
「経済力のある男性を好むな」
「リードしてくれる男性を魅力的と思うな」
とは普通は言えない。

それをやった瞬間、個人の選好に介入することになる。

だから、現実にはこういう状態になる。

建前では男女平等を支持しながら、
恋愛市場では旧来の性役割を前提とした評価が残る。

その結果、
・制度は平等を目指す
・選好は非対称を維持する
というねじれた構造が生まれる。

「奢り奢られ」もこの一部だ。

奢るという行為自体は本質ではない。
問題はそれが
「男性が経済力や主導性を示す行為」として機能している点にある。

もし社会的に「男性が主に養う側であるべき」という前提を否定するなら、
そのシグナルとしての奢りも本来は弱まるはずだ。

しかし実際には、ここだけが部分的に残る。

だからこの議論はいつまでも終わらない。
マナーの話に見えて、背後では社会構造の話をしているからだ。

ここで一つ、逆方向から考えてみる。

例えば男性側が、女性に対して
「意思決定の場で出しゃばるな」
「化粧をしていないと魅力的に感じない」
「お茶出しや料理は女性がやってほしい」
といった期待を、恋愛の“好み”として主張し始めたらどう感じるだろうか。

おそらく多くの人は、それを単なる個人の嗜好として受け流すのではなく、
「前時代的だ」「それは違うだろ」と感じるはずだ。

つまり私たちはすでに、
ある種の嗜好は“自由”として扱い、別の嗜好は“是正対象”として扱う
という線引きを無意識にしている。

そしてその線引きは、社会参加や機会の不平等にどれだけ影響を与えるかによって決まっている。

この視点に立つと、「奢り奢られ」も同じ構造の中にあることが見えてくる。

単なる支払いの問題ではなく、
誰が主導するのか、誰がコストを負担するのか、
そしてそれがどの性別に期待されているのか、という話だからだ。

では、この問題は解決できるのか。

正直に言えば、簡単にはできない。

理由は単純で、
制度は変えられても、選好は直接いじれないからだ。

ただし、完全に手が打てないわけでもない。

例えば、
「男なら奢るべき」といった露骨な役割規範を弱めること。
多様な関係モデル(女性が稼ぐ、男性がケアするなど)を増やすこと。
どちらの選択をしても不利益になりにくい制度設計を整えること。

こういった形で、選好が生まれる環境やコスト構造を変えていくことはできる。

それでもなお、完全に対称にはならないだろう。

人間は制度だけでなく、安心感や見栄や文化的刷り込みでも動くからだ。

結局のところこの問題は、

「恋愛は自由であるべき」という原則と、
「社会は平等であるべき」という原則が、
完全には両立しないという話に行き着いてしまう。